ケーシー村上 Web Site

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人目の入場者です
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私とインターネット



1998年Yahoo掲示板に「演歌をネタに世間話」というトピックを開設してサーバーに音楽ファイルをアップ仕合って楽しみました
1999年にはYahooGoctiesから「しょぼページ」というタイトルでホームページを開設アップすることになりました。

急成長するネット環境に伴い、2009年にはYouTubeにて故郷サイト、そして趣味の「演歌サイト」とアップ開始となりました
それにしてもネットの世界って異様なまでにバーチャルであって、何とディープな場所なのでしょう。性別すらあやふやなものとまでいわれています。何故このようなことになってしまったのでしょう。 




PCからスマホに



演歌のサイトに関わることによって、まず大きな疑問点を感じました。なぜこうまで演歌のCDが売れなくなったのでしょうか? 東洋の一部地域を除いて世界的には、日本の演歌はどの曲も同じように聴こえるにも拘わらず著作権が厳しいですねと言われています。動画サイトでは新曲CD発売前後から、著作権対策であろうか「新曲歌ってみました」という動画の氾濫。これではCDは売れません。

カラオケ全盛の風潮のなか主要メディアであるテレビから演歌・歌謡曲番組はまったく姿を消し、人々は新曲を追うこともなく、懐かしい曲にシフトを変えカラオケで楽しむようになりました。私はこの風潮を鑑み「懐かしい曲」「隠れた名曲」をコンセプトに動画サイトを運営していました。登録者、再生数とも好調に推移していました。

しかしネットを取り巻く環境の激変で視聴の形態がパソコンからスマホに急激に変更して参りました。 演歌サイトにあっても例外ではありませんでした。

私の動画チャンネルで申しますと、登録者数は数万人を数え、再生回数に至っては数千万回という数字を示すものの、スマホでの視聴が主流となるにつけ、youtubeを楽しむため有料プレミアム会員されている方より、無料視聴の方が大半となり、そのうえCMまみれということも災いして、1動画当たりの平均視聴時間が1分にも満たないという状況となってしまいました。

このような状況を苦慮して、登録者様の激減は危惧されるものの、皆さまには、何の前触れもすることなく 2013年秋、アップ動画すべてを一斉削除して、1分以内のショート動画がメインとするシフト変更を決心し断行いたしました。 このことによって、如何ような結果を招いても後悔はいたしません。これが世の流れです。みなさまのご理解 宜しくお願い致します。





プロフィール
生まれは岡山県高梁市
県境にほど近い片田舎で生を受けました。

義務教育を終え、何処に進学するにしても下宿生活となるのなら、いっそ大阪でと 備中高梁を離れSLを乗り継ぎ上阪することになったのでした。

 第二の故郷・・河内 
人生のサイクルからいえば、瞬くほど短いものの、未だに訛りが残るほど内容の深い3年間でした。

中学校時代からのガールフレンドとも、両方から中央にあたる姫路あたりでデートを重ねたり、八尾で知り合った彼女と布施で知り合った彼女がまさかまさかの同級生で双方ともダメになったりと、破天荒な青春を謳歌したものでした。

そんななか歌謡曲を作りたいという夢が膨らみ、大好きな河内を後にすることになるのです


 花の東京にやって来た
河内平野を後にして、東京オリンピックの余韻の残る東京に伯父を頼って上京することにしました。

伯父が共同経営していた会社は東京タワーにほど近い都電芝園橋電停前にありました。

「有楽町で逢いましょう」という大ヒット曲の影響でしょうか、到着後まずは芝園橋から都電で日比谷に出ました。

そして銀座、新橋、有楽町と歌に出てくるような街を訪ね歩きました。その時の感想は「別にたいしたことないやん」でした。

山手線の高架がやたら印象に残っています。イメージは「ガード下の靴みがき」という感じでした。

そして目に入ったのは日劇ミュージックホールでした。たしかアンジェラ浅丘というような芸名の人でしたが雑誌で見たスターの看板を確認しました。

「これは絶対観にゃあかんな」と思いました。もちろん後日その願いは叶いました・・・こちらのほうは「東京はやっぱ、たいしたもんや!通天閣の温劇の、ウチのおかんみたいなおばはんのストリップとは訳ちがうわい」と感動したものでした。

予算の関係で西武新宿線沿線のアパートを探すため新宿駅に向かいました。

山手線と西武新宿線は直結していませんでした。新宿にしたって南口の眼前は甲州街道で、鳥打帽の運ちゃんが運転するタクシーが窓を全開にして疾走していました。

こちらは「ぼくは流しの運転手」の印象でした。西武新宿線田無駅と柳沢駅の中間くらいに位置する安アパートを借りることになりました


 芸能界ってとこは・・
まず私が目指したのは、もともと文章作りが好きなので、作詞の勉強に打ち込みました。

流行歌の歌詞は流れが良いことも有って7775の文芸都々逸が原点だということで、来る日も来る日も都々逸と向き合う日々が続くのでした。

それから想像だにしなかった色々なことが巻き起こるのでした。

先生と帯同した一時期を文章にするには、あまりにも奥が深く多言すること自体タブーな部分も多く殆どは封印したまま、あの世まで持って行くつもりでした。

そんな折、半世紀も経過した令和の時代になって、ジャニー氏による性加害の問題、そしてセンセーショナルな海老蔵事件と、色々な芸能界の闇が急にあからさまになってまいりました。

私は30年以上前からこの種の問題をネットで提起して参りました。

それは私が19歳の冬2月のことでした。尊敬する先生の想像だにしなかった行動に人生最大の衝撃を受けました。私には「芸能界の風習」を受け入れる選択肢は存在しませんでした

デビュー曲も、詩集も楽譜もすべて置き去りにして、ボストンバックひとつを持って先生の中目黒のマンションを、真冬の深夜に飛び出し歩いて渋谷駅に向かったのでした。

東京の狭い空には、西に傾いた冬の星座が輝いていました。そんな時坂本九さんの歌が頭のなかに流れ、詩の全編が体の芯からこみあげてくるのでした。

気を強く持とうとして、上を向いても歩いても・・冬空を歩く頬に涙が伝うという途轍もなく辛いことでした。

渋谷駅について浮浪者の焚き火で暖をとり始発電車を待ちました。そして、すぐ目の前にあった大きな夢も、最愛の彼女も全部捨てて、東京を離れたのでした。

夢見て東京へ出たものの、大きな夢は叶えられなかったものの東京を離れたという事実は自分の人生にとってどうだったのかと考えるとき、やはり「運命は運命なのだった」と述懐するものなのです。

 悪夢から醒めて・・
前節でも触れた夢からの挫折は、逆に重圧からの解放感で一気にふっ切れ、人生観まで変わりました。

「普通に生きよう!今までのことは悪夢だったのだから・・・・」
岡山に帰郷し勤務先やお得意先の多くの友達と青春を愉しみました。その気もなかったのですが、気がついたら結婚していました

現在の少子化の風潮は如何なものでしょうか?自分たちの生活のためだけでしたら、淋しすぎはしませんか? 

4人5人と子供を設けたら生活が苦しくなる・・・日本って、他のアジア、アフリカ諸国以下で、次代を託す子供すらも育てられない貧困な国なのでしょうか?

我が家は長女・長男・次女・次男と、ファミリーは現在15人です。
縁あって福山市 
妻の出身地は人口47万人の大都市にしては知名度にイマイチ欠ける福山市です。

その昔は備中(岡山県西部)と備後(広島県東部)で小田県を形成していましたが、そのうち備後は、岡山とは倍も離れて縁もゆかりもなかった遠い安芸の国、広島県に編入されたのでした。








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