岡山県の片田舎で生を授かりました。義務教育を終え、何処に進学するにしても下宿生活となるのなら、いっそ大阪でと 郷里を離れ上阪することになりました。 |
短い期間でしたが、未だ河内訛りが残るほど内容の濃い3年間でした。岡山からの友と、姫路あたりで待ち合わせをしたり、八尾で知り合った彼女と布施で知り合った彼女がまさかまさかの同級生だったとは。広い大阪でそんなことってあるの? 破天荒な青春を謳歌したものでした。 |
そんななか歌謡曲を作りたいという夢が膨らみ、大好きな河内平野を後にして、東京オリンピックの余韻の残る東京に上京することになったのでした。「有楽町で逢いましょう」というヒット曲の影響でしょうか、まずは都電で日比谷に行くことにしました。その時の感想は「別にたいしたことないやん」でした。 |
私は、レコード大賞を受賞された著名な作曲家に師事していたため、中目黒が活動の拠点でしたが、渋谷ではなく新宿によく出向きました。新宿駅南口の眼前は甲州街道で、鳥打帽のタクシーの運ちゃんが窓を全開にして疾走していました。 |
もともと文章作りが好きなので、まずは作詞の勉強に打ち込むつもりでした。先生は「まだ若いのだから歌ったらどう」ということで歌唱指導もされました。そして想像だにしなかった色々なことが巻き起こるのでした。次から次へと楽曲は誕生するわけですが、この裏でも色々なことがありました。
|
先生と帯同した一時期を文章にするには、あまりにも奥が深く多言すること自体タブーな部分も多く殆どは封印したまま、あの世まで持って行くつもりです。 |
19歳の冬2月のことでした。尊敬する先生の想像だにしなかった行動に人生最大の衝撃を受けました。私には「芸能界の風習」を受け入れる選択肢はまったく存在しませんでした。詩集も楽譜もすべて置き去りにして、中目黒のマンションを飛び出し渋谷駅に向かったのでした。すぐ目の前にあった大きな夢もさることながら、最愛の彼女も全部捨てて、東京を離れたのでした。 |
前節でも触れた夢からの挫折は、逆に重圧からの解放感で一気にふっ切れ、人生観まで変わりました。
「普通に生きよう!今までのことは悪夢だったのだから」と岡山に帰郷し福山を営業拠点として働き、多くの友達と青春を愉しんでおりましたが、気がついたら結婚していました。 |
現在の少子化の風潮は如何なものでしょうか?自分たちの生活のためだけでしたら、淋しすぎはしませんか? 4人5人と子供を設けたら生活が苦しくなる・・・日本って、他のアジア、アフリカ諸国以下で、次代を託す子供すらも育てられない貧困な国なのでしょうか? |
妻の出身地は人口47万人の大都市にしては知名度はイマイチの福山市です。その昔は備中(岡山県西部)と備後(広島県東部)で小田県を形成していましたが、そのうち備後は、岡山とは倍も離れて縁もゆかりもなかった遠い安芸の国、広島県に編入されたのでした。しかし住めば都。素敵な街です。吉備の国
福山大好き!
|
結局、演歌とともに活きてきた人生。楽しく過ごせたら本望です |
|